幸福について 人生論 ショーペンハウアー著 を読む その1 [人生論を読む]
その昔途中まで読みながら、人生経験の浅さゆえ、内容が理解できず挫折した、表題の書籍であるが、以前このblogでの紹介を機に再度読み直すことにした。
そこで、今回は熟読すべく、私なりの解釈も加えながら記事にしてみたいと思う。
緒言
緒言において、筆者は人生論を「できるだけ楽しく幸福に人生を過ごす技術」という意味で定義し、その技術の手引きを「幸福論」と名付けている。しかしながら、この「幸福論」は「普通一般の経験的な立場に終始」し、さらに、「完璧を期するものでもない」としており、その理由を、「一つには論題が説明しつくすこと出来ない性質」であり、」「また一つには、完璧を期そうとすれば、他の人の言い古したことを繰り返し述べなければならない」からだ、としている。
要するに人生を楽しく過ごすための指針である「幸福論」は、いつの時代でも同じようなことになってしまうし、説明しきれるほど単純なものでもない、ゆえに、ここでは著者なりの考えを述べようというものなのだ。
これまで多くの賢人が同じようなことを言ってきているにも関わらず、愚者はいつの時代もその逆を行ってきていて、今後も変わらないだろうとも述べている。
なるほど、確かに誰もが人生を有意義なものとし、「幸福」になりたいと願ってはいるが、果たして真の意味での「幸福」とは何なのか、哲学者の考える「幸福」とは?逆に不幸な状態はどんな状態を指すのか、そんなことを考えさせる序章となっている。
ここまでの内容では、どうやら愚者=ばかものは、それをすると不幸になるということをわざわざやっている者のようだ。
贅沢、グルメ、酒、煙草、不倫、不貞、二股、ギャンブル、喧嘩、暴力、違法犯罪行為、妬み、嫉妬、怨恨・・・。いずれも一時的な満足感を得たり、他を貶めたりと、結果的に良い形になりそうなものがない。
私も前述の部類に全く属さないかといえば、そうでもない。つまり、ここまでの本書でいうところの愚者になってしまうようだ。
何故人は、こういったことに楽しみを見出したり、足を踏み入れたりするのか?そこには、多分に精神的な貧困さがあるようだ。一時の快楽を求めるあまり、手軽なことに手を染めてしまう。または、感情の趣くままに行動に走る。
「わかっちゃいるけど、やめられない。」バカであることは、不幸の始まりのようである。
うーん。すでに自分のことを指摘されているようで、困ってしまう。。
つづく
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