亡き友を偲ぶ [Life]
8年ほど前の6月、兄とも慕う友が逝った。今日のような雨と蒸し暑さの入れ替わる日に送ったことを、昨日のことのように覚えている。
ジャンケレヴィッチは、死を考える際、「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」を唱えた。
一人称の死は、私の死であり、ほとんど全ての人がその後のことを体験することなく人生終える。臨死体験などは、希少な例であっても、蘇るわけだから、本当の死とはいえない。そして、三人称の死は、誰かの死を指し、自分に近ければそれだけダメージは大きいが、多くはその喪失を何かしらの形ですぐに埋めてしまうものである。そして、二人称の死こそ、かけがえのないあなたの死であり、そのぽっかりと空いた心の隙間を埋めるまでに多くの時間を要するものである。
すなわち、死とは、残されたものが乗り越えるべき精神的な苦痛の一つであり、関係が深いほどその苦痛は大きいのだ。もっといえば、残されたもののエゴに他ならない。こんなに悲しい、こんなに辛い、どうしよう、といってもそれは、本人がどうにかしなければ、いかようにもしがたいものなのだ。
後にも先にも、これほど泣いたことはなかったろう。しかし、泣くことは感情の作用でしかなく、それによって救われたのは結局悲しみに暮れる自分自身でしかなかったのだ。誰のための涙かを問われれば、それは自分のための涙だったのだろう。
悲しければ、泣けばいい。ただそれだけのことではるのだが。。
時の流れは一方通行で、一度過ぎれば、二度と戻ることはできない。ああすればよかった、こうしておけばなどというのは、残された者の後悔の念であり、そう考えることで喪失感を埋めようと試みるのであるが、せんなきことなのだ。
今日は、亡き友を偲ぶ日である。時の流れと共に薄れていく記憶を呼び戻す年に一回のこの日に過日の良き思い出だけを思い起こそう。
その日、あなたの分まで人生を楽しませてもらいますよと言った自分は、今日もその勝手な誓いを胸に酒を飲むのだ。
死など美化するものではない。また、蔑むものでもない。それは、生まれたときから約束された人生最後の儀式なのだ。
自分より早くその儀式を経て魂を解放して逝った「あなた」たちを思いだそう。そして、できることを精一杯やっていこう。
やがて来るその日、もし、あの世があるなら、「あなた」たちに「こんなことがあったよ」と沢山語り合うために。
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